住職コラム 事事無礙 -jijimuge-

第59回

 月日のたつのは早く、もう今月で今年も終いです。小学生のころ、1年間はなんて長いのか、ましてや6年間なんて、もう永遠のように感じたものです。しかし、大人になればなるほど、時がたつのは早くなっていきます。色々と物事を経験し、様々な事柄に新鮮味を感じなくなるからだと、何かの記事で読みました。たしかに、子どもの時分にくらべますと、驚いたり感動したりすることが少なくなったかもしれません。そうだとしますと、時間というものは、私どもの心の動きを表しているものとも言えそうです。客観的に時間が存在するのではなく、心が絶え間なく動くから、そこに時間というものを感じるのかもしれません。まず客観的世界があってその中に私がいるのか、それとも、まず私があって客観的世界を作り出しているのか。これは難題ですが、仏教では後者であると考えています。

2011年12月 浄土真宗本願寺派 善福寺 住職 伊東 昌彦

第58回

 年内に博士論文を書籍として出版させていただくこととなり、先日、その最終校正が終了いたしました。大学院での指導教官であった竹村牧男先生のご紹介で、仏教書出版で名を馳せる、東京神田の春秋社から出版いたします。今まで雑誌投稿での校正は経験していましたが、本格的な校正作業は初めてのことであり、編集スタッフの方々から色々と学ばせていただきました。また、私が修正をお願いしたところは、1つの漏れもなく修正していただきまして、根気のいるお仕事に、改めて敬意を表したいと思います。しかし、昨今は何事も電子化が進みまして、書籍販売は振るわないそうです。これも時代の流れなのでしょうが、私はやはり書籍の質感、そのもの自体の存在感が好きです。図書館で使い古された書籍を手に取りますと、知識の重さを感じる取ることができます。そして、頁をめくって読むという行為が、自らの内に新しい知識の芽を育んでくれるような気がするのです。

2011年11月 浄土真宗本願寺派 善福寺 住職 伊東 昌彦

第57回

 先日、落ち葉を燃やしました。秋を味わう余裕もなく、豪快に山積みにして焼却しました。実はすでに3山たまっておりまして、年内に処分できるのか問題です。大変だと思いつつ、腐葉土化している部分をフォークでかいていますと、なんと巨大な幼虫がゴロゴロと出てきました。カブトムシです。軽く10匹以上いました。冬を越して、来年には成虫になるのでしょう。しかし、今回、焼却の犠牲になってしまった虫も多いはずです。そう思い、そこの落ち葉はそのままにしておきました。昨今、自然との共存が叫ばれますが、人にとって、これは本当に難しいことです。人は食以外の目的でも命を奪ってしまいます。土のなかには驚くほどの命がありますが、これらの命をむやみに奪わないで生活ができるでしょうか。自分たちの生活と、自然ということ、よくよく見比べてみる必要がありそうです。

2011年10月 浄土真宗本願寺派 善福寺 住職 伊東 昌彦

第56回

 先日、十年ぶりかと思えるほど久しぶりに、ご自宅で通夜葬儀のお勤めをいたしました。かつては自宅葬が主流でしたが、葬儀社の会館ができますと、急速に自宅葬はなくなっていきました。お葬式のとき、とにかくご遺族は慌ててしまいます。通夜葬儀の準備はもちろん、様々な書類を提出したりせねばならず、落ち着いて考えている余裕はありません。葬儀社はそんなご遺族をサポートして下さいますので、もちろん必要な存在です。ただ、故人が過ごされたご自宅での葬儀と、葬儀社の会館での葬儀を比べますと、どうしても会館葬は形式的なものになりがちです。故人らしさや、そのご家族の個性が打ち消されてしまっているような気がしてなりません。今、葬儀の意義について再考する機運が高まっています。葬儀は大切な学びの場です。皆さんもその意義について、是非、お考え下さい。

2011年9月 浄土真宗本願寺派 善福寺 住職 伊東 昌彦

第55回

 仏教では「縁起」を説きます。形のあるもの、ないもの、すべての現象は縁によって起きていると見ます。言い換えれば、すべては関係性のなかに存在しており、何事も支え合いのなかに生かされているのです。自分の歩みを振り返ってみれば、そのことが良く分かるはずです。都合の良いこと悪いこと、おそらく様々だと思いますが、たくさんの出会いや出来事を経験して、今の自分がいます。あれによって私がいる、私によってあれがある、あなたがいて私がいる、私がいてあなたがいる、きっとこんな具合でしょう。こうした見方は宗教や哲学に限らず、もちろん、普段の生活や仕事をする上でも重要です。皆がこういう意識を持つことが出来れば、もう少し世界の争いが減るかもしれません。まずは私から、仕事や家庭において、少しでも「縁起」を感じながら過ごしていきたいと思います。

2011年8月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第54回

 日本仏教は本来、仏教と神道が融合した「神仏習合」であると言えます。東アジアの仏教はそもそも習合的でありますが、日本ではあまり見られなくなっています。これが明治政府による、いわゆる神仏分離に端を発していることは明白ですが、同時に欧米的な宗教観というものが浸透し、仏教と神道は別の「宗教」であるという感覚が国民に根付いたことも無関係ではないでしょう。日本の宗教は神仏によって形成されてきたものであり、それは純粋な仏教でもなければ、単なる神道でもありません。今でもお寺と神社がお隣同士という風景を見かけますが、それは神仏習合の名残だと思われます。善福寺にも、江戸時代にはお稲荷さんが祀られていたような記録がありますが、一体、どこにいってしまったのでしょう。江戸時代はどういう形態のお寺であったのか、今、とても興味があります。

2011年7月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第53回

 「孫の供養に」と新聞にありました。東日本大震災で被災された男性が、子どものいる家庭に無償でアパートを提供されているそうです。ご自身はお母様、奥様、そしてお孫さんを亡くされ、避難所で過ごされていましたが、そこでの子どもたちの気兼ねしている様子が気になり、亡くなったお孫さんと同じような子どもたちに、「思う存分、のびのびと生活させてあげたい」と思われたそうです。ボランティアの方たちの協力のもと、所有されていたアパートを修繕し、13家族に提供されるとありました。手を合わせたり、お墓を建てたりすることも、もちろん供養ではありますが、それだけではないでしょう。残された方が亡くなられた方を思い、どう生きていくのか、大事な方を亡くされたということと向き合い、どう歩んで行くのか、そういうところに供養の本質はあると思います。

2011年6月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第52回

 今年の夏場はかなり節電しないとならないようです。冷房生活に慣れてしまいましたので、改善しないといけません。思い返すならば、かつては扇風機の生活でした。どこでも扇風機が回っていたことを思い出します。しかし、時がたつと忘れてしまうものですね。いや、一度便利になると忘れるということなのでしょう。仏教には「少欲知足(しょうよくちそく)」という言葉があります。「欲を少なくしても足りることを知る」という意味で、現代的に言い換えれば、「無駄使いしなくても問題ないことを思い出す」ということです。本来は扇風機でも大丈夫なはずです。そもそも団扇(うちわ)だけでも問題なかったはずです。かつての生活スタイル、思い出したいものですね。それにしても最近の夏は暑いですから、熱中症には気をつけないといけません。できる範囲で節電をしたいと思います。

2011年5月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第51回

 この度の東北地方太平洋沖地震で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
――――――――――――――
仏教には「同事」という教えがあります。相手と同じ立場に身を置くことであり、人々を導く菩薩の徳行です。相手の気持ちになるとは良く聞きますが、簡単なことではありません。何しろ状況がまったく異なる人と、自分の気持ちを重ねなければならないのですから、そうそうできることではありません。たとえば苦しんでいる人を前にして、「頑張れ!」と声をかけたところで、場合によっては、「これ以上何を頑張れと言うのか」と相手は感じるかもしれません。また、「ともに頑張ろう!」と苦しみを共有する声かけをしたとしても、その場を離れて、なお頑張ることが本当にできるのか、自問せねばなりません。それだけ相手の気持ちになることは難しいのであり、だからこそ、同じ立場に身を置くことが大切だと言われるのです。その意味において、現場に居続けることは尊いことだと思います。

2011年4月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦