住職コラム 事事無礙 -jijimuge-

第20回

「お魚くわえたドラ猫、追っかけて♪」とくれば、裸足で駆けていく、陽気なあの人のことが思い浮かびます。長年聞いてきた歌詞ですが、先日、焼き魚をいただきながら、ふと思ったことがあります。「魚をくわえた猫を追いかける・・・、そんな人いるか?」と。妻に聞いたところ、「まず自分ならしない」という答えが返ってきました。もちろん、私もしないでしょう。「腹をすかしたドラ猫のことを思って」というよりも、「ドラ猫がくわえた魚は食べたくない」ということです。しかし、この歌詞は少し誇張されているものの、おそらく制作当時に考えられた日常の風景をもとにしていると思われます。「食べ物を大事にしていないかなあ」と、少し感じたことでありました。

2008年9月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第19回

 お盆と言いますと、一般的にはご先祖さまが一時的に「あの世」から家に戻られる期間として理解されているようです。もちろんこの理解は間違いではありませんが、お盆が終わると同時に「あの世」におくり帰すということに、少しご都合主義的な考え方を感じてしまいます。ここには、死の世界である「あの世」とはできれば関わりたくないが、避けてばかりいては祟りが怖いという人の勝手な思いがないでしょうか。「あの世」は確かに死をへて参るところですが、むしろ皆が再び出会う世界でもあります。そんな尊い世界として、仏教では「あの世」を「お浄土」と表現します。「お浄土」から来られたご先祖さまです。もう少し長くいて下さってもいいではありませんか。

2008年8月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第18回

 来年から裁判員制度が始まりますが、その事実はあまり世間には浸透していないようです。他でもない私たち国民が裁判員になるのですから、少しは自覚を持たなければなりません。しかし、そもそも人間として、裁く者と裁かれる者の違いはどこにあると言うのでしょうか。むしろ、いつでも立場が入れ替わる可能性があるのが我々人間であり、本質的には両者の違いはないように感じます。裁判員制度の導入が社会的にやむを得ないとしても、この点を見失うならば、権力によって人権が抑圧されることがまかりとおる社会となってしまうでしょう。「市民感覚」が大切だと言われる裁判員制度ですが、しっかりとした「感覚」を持っていきたいものです。

2008年7月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第17回

 仏教には「自業自得」という教えがあります。一般的にはもっぱら悪い意味で用いられていますが、本来は善も悪も含めた自分の行いによって、自分に善や悪の果報を受けることを言います。何らかの状態にあることは、それを生み出す原因があり、それは自らの内にあると言うのです。もちろん外部からの間接的な力も影響するはずですが、直接的には全て自分の行動、発言、考えによることになります。言い換えれば、「自分」という存在の責任は「自分」にこそあり、決して他者にはないと言うことです。ズシリと重い荷を背負う感があるかもしれませんが、それほど人の存在は重く尊いものです。そして、それは全人類において言えることであり、誰かが軽んぜられることがあってはならないのです。

2008年6月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第16回

 告白いたしますと、実は最近「トライク」という乗り物に非常に関心があります。聞きなれない言葉かもしれませんが、要するにバイクを三輪に改造したものです。私は二輪免許を持っていませんので、通常はバイクに乗れません。しかしトライクは改造車(合法)であり、なんと普通免許で乗れるのです。そのスタイルは賛否両論あるかもしれませんが、私には何故か最高にイカした風体に見えます。ただ、私はバイクに乗ったことがありません。バイクに類似した乗り物で公道を走ることは、私には未知の世界であり、かなりドキドキです。おそらく乗ってしまえば楽しいものなのでしょうが、なかなか決心がつきません。お浄土へまいることもこのようなことかと、思わず納得してしまいました。

2008年5月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第15回

 かつてロックバンドを組んでおり、若年層における社会問題への関わりをテーマにしていました。簡単に言えば、パンクバンドというやつです。ある時、普段感じている何気ない憤りを歌詞にしようということになり、皆で色々と箇条書きにいたしました。出てきた内容、それぞれに妙に納得をして、「あるね~こんなこと」、「いるいる、こんなヤツ!」と盛り上がり、一気に完成いたしました。多少下品なので、ここで紹介できないのが非常に残念です。しかし、その時文句を言っていたことは、実は自分たちも普段よくしていたことであり、そこには愚かな姿が残されています。今もたいして変わりませんが、文句を言っている時ほど、自分の行いが見えていないということを、過去の自分に教わったような気がいたします。

2008年4月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第14回

 医学の発達した現代、かつては不治の病と呼ばれた病気の治療法が発見され、多くの命が救われています。しかし、克服されていない難病はいまだ多く、それは決して他人事ではありません。生老病死を実感しにくい現代社会とも言えますが、私たちは本来、「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身」(「白骨章」)であり、必ず明日がやってくるとは誰にも断言できないはずです。今、この瞬間であっても、あたりまえのようにやってきたわけではありません。あたりまえだと思ってしまうと、有難い(=実には有ることが難しい)と思う心は失われてしまいます。そんな自分に自身ふと気づかされ、「あたりまえ」と思える日常に、日々、感謝をしていきたいものです。

2008年3月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第13回

 先日、脳死での臓器移植の問題をテーマとした研究会に参加いたしました。欧米には精神が滅んだ時点を「人の死」とする考え方もあり、その精神の所在は脳にあると見られているとのことでした。つまり、脳死が「人の死」になるので、脳死状態にあるならば、他の臓器が活動をしていても、その人は死んでいると見なされるのです。移植の重要性を考慮 したとき、一見、非常に合理的にも見えますが、精神を脳活動に限定する考え方には違和感を覚えます。脳がなければ、相手の精神を感じ取ることができないのでしょうか。精神とはそれほど単純な構造ではないはずですし、本来、人はそれを知っています。理性だけの議論では不十分であり、より実生活に即した議論の必要性を痛感いたしました。

2008年2月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第12回

 私は面倒くさがりやです。去年ギターを買ったのですが、これがまた音を合わせるのが面倒くさい。全然やってません。折りたたみ自転車を頂いたのですが、折りたたむのが面倒くさい。放置されてます。仕事が山積みだと、まあとりあえずは机に寝かせておいて、という具合に後回しです。昔は結構マメなほうだったのですが、スッカリ変質しました。今年はそんな怠惰な性質を改善しようと思い、コラムも早めに仕上げることにしました。「スピード&チャージ」、懐かしいスローガンですが、しっくり来ました。年末、さっぱり忘れてそうな気がしますが、それはそれ、また来年も同じでいいではないですか! 合掌

2008年1月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第11回

 12月と言えばクリスマスや大晦日、楽しみがいっぱい。ロマンチックで厳かで、格別な色模様に気分が盛り上がります。しかし、我が家はもちろんブッディスト(仏教徒)、クリスマスはありません。とは言うもの、子供にせがまれて、とうとう小さなツリーを購入してしまいました。おもちゃ屋さんで買ったから、これは「おもちゃ」だと自分に言い聞かせましたが、クリスマスの意味も分からず喜ぶ子供に、複雑な心境です。プレゼントやケーキくらいはいいかなと思いますが、キリスト教徒の方々にとって、クリスマスの心は深く尊いものです。「メリークリスマス」は「乾杯!」ではありません。その心を冒涜するような行為は決して許されないと、あらためて知らされました。

2007年12月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦