善福寺の紹介
善福寺HOME > 善福寺の紹介

善福寺の紹介

善福寺の歴史

善福寺は龍頭山華水院と号し、宗祖・親鸞聖人常随の高弟である関東六老僧の一人、平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)の創建です。伊東祐光は伊豆の押領使・伊東祐親の孫にあたり、その次男・伊東九郎祐清の子で、仇討ちで有名な曽我兄弟とは従兄弟の関係になります。元仁二(1225)年、一族を弔うために出家した祐光は、法求房と称して天台宗鶏足山高麗寺大権現(現・大磯町高来神社)の別当職につきました。その後、時を同じくして国府津(勧堂)に滞在していた親鸞聖人と出会い、本願他力の道に深く心を打たれ、随喜のあまり弟子となりその門に帰しました。法名も善念房了源と賜り、念仏の教えを各地に弘めて道場を建立し、延応元(1239)年には壗下の地(現・南足柄市壗下公民館)にも草庵を結び阿弥陀堂を建立いたしました。当初、この阿弥陀堂は七軒門徒が中心に護持をしており、善福寺の本院は大磯山下の地にありましたが、本院が小田原北条氏による一向宗(浄土真宗)の禁制(1506年−1560年)により打ち壊しとなったため、寺基が阿弥陀堂のある壗下に移されるかたちとなったのです。禁制解除後、北条氏康の帰依により一向宗本寺の朱印免状を受け、大磯にも祖山善福寺が復されたのち、本山・本願寺の東西分派に伴い、壗下善福寺は西本願寺の法灯を守ることとなりました。現在、壗下善福寺は西之坊とも呼ばれ、壗下と隣接する怒田の高台に位置しておりますが、これは度重なる酒匂川の氾濫を避けてきたものです。現阿弥陀堂(本堂)は文化二(1805)年の再建であり、山門は小田原城家老職・大久保忠衛の屋敷門の移築です。

了源上人伝

了源上人坐像
了源上人坐像

壗下善福寺伝によれば、平塚入道了源は俗名を伊東四郎祐光といい、伊豆の押領使であった伊東入道祐親の次男である伊東九朗祐清の四男であるという。父・祐清が北陸加賀篠原において討死のあと、母方の祖父狩野介入道宗茂に養われていたが、召し出されて従五位下に叙され左衛門尉に任ぜられ伊豆河津の庄を賜る。しかし、祖父・祐親、父・祐清、そして、従弟にあたる曽我兄弟の悲しき最後に思うところあり、相模平塚の地に居してのち、一族の菩提を弔うため武門の志を捨て出家し法求房と号し天台僧となった。鶏足山高麗寺大権現の別当に賦された頃、親鸞聖人が国府津に草庵を結んで滞在中にこれを訪ね、涙と共に胸中の思いを打ち明けたところ、宗祖は「御房、その御発心は何よりの事、我が浄土の真宗においては、十悪五逆の罪人も阿弥陀仏御助け候へと深く頼む衆生をば、悉く、浄土に往生させ成仏の暁は有縁の者を救うことを得るという有難き御教え、ただ、この上は信心決定して、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、・・・」(松本青邨『親鸞一代記』、成光館出版部、昭和三年、261頁)と仰られた言う。祐光も自然に称名念仏し、随喜の涙に咽んで渇仰の思い益々深くなり、浄土門に帰して弟子となり関東六老僧に名を連ねた。宗祖から法名も新たに了源と賜り、法求房改め善念房了源と号し、宗祖は親しく「平塚の入道」と呼ばれている。

お問い合わせはこちらから

▲ページのトップへもどる

正式名称
浄土真宗本願寺派
龍頭山華水院 善福寺
郵便番号
250-0106
住所
神奈川県南足柄市怒田153
電話番号
0465-74-0371
FAX番号
0465-72-2026

善福寺からの風景