山に囲まれた仙石原と人々のいとなみ





箱根山の噴火によりできました大きな窪地、芦ノ湖の北に広がりまする湿原、草原が仙石原でございます。いつの頃からこのように呼びならわされるようになったのかは定かではございませぬが、古くは千穀原とも言われ、源頼朝公が彼の原野を眺めて「この地を開墾すれば米千石はとれるであろう」と宣ったことに由来するとも、土岐氏の後、美濃斎藤三代に仕え、稲葉山城の戦いでその若き勇壮さを嘱望され、羽柴秀吉配下となった仙石氏の仙石久秀に由来するとも伝えられておりまする。

薄(ススキ)の草原と湿原の広がる仙石原には、弥生時代の中期頃から既に農耕の民が住み始めたと伝えられておりまするが、さて周りを山々に囲まれた地、時とともに人や物の往来が増え、それに伴って栄えて参ります街道沿いとはやはり異なる人々のいとなみというものが、そこの暮らしをささえてきたのでございましょうか。

中国より稲作が伝えられ、我が国の多くは食べるものを生産貯蔵することのできる農耕民族となっていきましたが、もとより山や川の多い地が多くございますので、そこにはいつの時も山や川での暮らしを成り立たせている民がおりました。山の民、川の民と呼ばれる人々は、古くは山での狩猟、山菜や茸採り、また川での漁をしたりと、山と川から得られる自然の恵を主な糧として暮らしてきたものと思われまする。また、川を渡すこともその生活を支えるひとつの仕事でありました様で、古くは古事記にも船頭としての姿が出てくることから、古代から続く生業のひとつと考えられているそうでございます。また山は山でも鉱山もまた多くあり、所によりましては鉱山採掘にたずさわる山の民もまた多くいた様でございます。

農耕民族となり、米を軸とした分限や物の売り買いといういとなみの中に、山、川の民もまたいつの世にも深く関わり、そしてそこには表の街道とは異なる、それぞれの『道』があり、長きに亘り人や物の往来がありつづけたものかと思われるのでございます。



※山の民や川の民につきましては;
井上鋭夫著 『山の民・川の民 日本中世の生活と信仰』(平凡社)(ちくま学芸文庫)
をご一読なさることをお勧めする次第でございます。