二宮金次郎と小田原藩 ~工夫と努力とで成し得る財政再建~





天明七年(西暦1787年)、相模国の足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に生を受けた二宮尊徳。時は江戸時代後期、栢山村がございました相模国足柄上郡は幕府天領ではなく、小田原藩の治めるところでありました。小田原と申しますれば、かつて豊臣秀吉の小田原征伐において、室町時代後期から安土桃山時代半ばにかけての戦国時代、五代にわたって関東に覇を唱えた北条家の本拠地であり、その北条氏が滅ぼされた後、関東に入部した徳川家康がその押さえとして、三河衆であり徳川十六神将の一将にも数えられる譜代の大久保忠世を据えた地としても知られております。単に東国の要というだけではなく、様々な意味で重要な拠点と考えられた場所であったことが、その人の配置からもうかがい知ることのできる地でございました。

やがて江戸に幕府が開かれ、小田原藩の治めるところとなり、途中改易などで他家の舵取りとなる時期はございましたものの、貞享三年(西暦1686年)に初代藩主大久保忠隣の孫にあたる大久保忠朝が入封してからは再び大久保家の治めるところとなっておりました。二宮尊徳が生を受けましたのは、それから藩主六代を数え、大久保忠顕が小田原藩主であった時代のことでございました。

二宮尊徳は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家として知られる人物ですが、もしかしたら、小学校などで見かける、薪を背負いながら本を読んで歩く姿の少年の銅像・二宮金次郎(自筆では金治郎)と言われたほうが思い当たるという方も少なくないかも知れません。尤も、その背景には明治三十七年(西暦1904年)以降、国定教科書に尊徳(金次郎)が取り上げられるようになり、勤勉の象徴、修身の象徴として、やがて学校教育、地方自治における国家の指導に「金次郎」がいわば政治利用されてしまったことにもよると考えられておりますが、実際に金次郎少年がこのような姿で歩いていたかということに関しては、疑問が残るとされているようです。



さて、二宮尊徳が生まれた当時、栢山(かやま)村は、先述の通り小田原藩領でございました。比較的裕福であった農家の長男として誕生した尊徳でしたが、寛政三年(西暦1791年)に南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の堤が決壊、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまい、家の田畑も砂礫と化してしまいました。やがて眼病を患った父親が寛政十二年(西暦1800年)に他界、まだ14歳の金次郎少年は、朝には早起きをして久野山に薪取りに、夜には草鞋作りをして一家4人の生計を支えてきたと伝えられておりますが、その身を粉にして働く姿、そして収穫への工夫をあれこれと行い、収入の増加を図る姿勢とが、薪を背負いながら本を読んで歩く姿の少年像と重ならないものでもないと申せますでしょうか。しかしながら2年の後、貧困の中で母親も他界、祖父(伯父)の元に身を寄せることになった金次郎は、厳しい制限のある暮らしの中、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って夜の読書の際の燈油としたり、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得たりと、いつも工夫を凝らしながら身を粉にして働き続けたそうでございます。

やがて祖父(伯父)の下を離れた金次郎は、苦労と工夫とを重ねながら毎年収穫を、つまり収入を増やし、ついに家を再興するにいたったのでございます。家を再興した金次郎は、地主として農園経営をしながら、小田原に出て武家奉公人としても働きはじめることになります。小田原に出て後、親族からの勧めで金次郎のことを知った小田原藩家老、服部十郎兵衛から、服部家の家政立て直しを依頼されることになります。5年計画でそれを請け負った金次郎は、文化十一年(西暦1814年)には服部家の財務を整理、1000両の負債を償却し、且つ余剰金300両を贈るまでの立て直し成功をいたしましたが、自らは一銭の報酬も受け取らなかったそうでございます。
この事により小田原藩内で名前が知られるようになった金次郎でしたが、その着想と実践力を小田原藩主、大久保忠真に見込まれ、藩主大久保家の分家・宇津家の旗本知行所で財政難に陥っていた下野国芳賀郡桜町の財政立て直しの命を受けるのでした。

険しい道のりを経て、漸く桜町領の財政再建を成し遂げた金次郎の下には、次々と救済、復興再建の依頼が続き、自ら仕法を施すと共に、その手法を伝えていくことで、より多くの領地、村々の復興再建に尽力していったのでございます。天保十三年(西暦1842年)には幕臣となり、各地での仕法を命じられる尊徳(金次郎)には休まる間とてなく、広く村々の、人々の救済に力を注いでいくのでありました。

安政三年(西暦1856年)に、その70年の生涯をとじるまでに、手法を伝えることを含めて実に600を数える村々に、後に報徳仕法と総称される財政再建策を施し、再建に努めたと伝えられております。



尊徳の生家は、尊徳が16歳の一家離散となってしまった際、売却されておりましたが、後に尊徳記念館建設期成会により生誕の地(当時の栢山村)に復原、市に寄贈されました。木造平屋建茅葺の生家は、今も小田原市栢山にある尊徳記念館敷地内にて見学することができます。

より深く、しっかりと二宮尊徳について知りたい方は、ぜひ小田原各所にて二宮尊徳の教えに触れ、足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。


【関連サイトのご紹介】

小田原市尊徳記念館・二宮尊徳生家
小田原市栢山2065-1

報徳博物館
神奈川県小田原市南町1-5-72

報徳二宮神社
神奈川県小田原市城内8-10(小田原城址公園内)

映画『二宮金次郎』公式サイト



栢山に今ものこる生家