足柄峠と坂東の地





駿河の国と相模の国とのちょうど国境に位置する足柄峠。かつてはここを足柄坂と呼び、ここより東は坂東(東国、関東:相模,武蔵,上総,下総,安房,常陸,上野,下野の国)と称され、足柄峠はいわばその入り口にあたるところでございました。駿河国と相模国の『境(さかい)』が『坂(さか)』となり、その『坂』より『東』であることから『坂東』と呼びならわす様になったようでございます。

律令時代における広域地方行政区画でもありました五畿七道の内、その七道のひとつが東海道(古東海道)でございました。古東海道は駿河国と相模国とを結ぶ本道でもあり、まだ大河に橋を架ける技術も十分ではなかったこの時代、駿河から相模へと通じる道も大河下流域は通らず、越えることが困難であっても敢えて峠道を抜けていくもので「足柄道」(あしがらどう)または「足柄路」(あしがらじ)とも呼ばれていたところでございます。万葉集の防人の歌にもその名が残されていることから、八世紀頃にはすでに東国と畿内とを結ぶ主要道としての往来の様子が伺えるところでございました。

時代は下り、鎌倉幕府が滅ぼされ後醍醐天皇による親政が始められたのも束の間、建武二年(西暦1335年)には後に建武政権崩壊の第一幕、南北朝時代の幕開けとなったと言われております箱根・竹ノ下の戦いが行われたのでございます。この時、足利尊氏の軍勢は足柄峠に陣取り、西側から攻め寄せた脇屋義助率いる新田義貞の分隊を峠下の竹ノ下で破るのでした。

足柄道、足柄峠のあたりは、駿河大森氏によって築かれたとされる足柄城がございました。戦国時代には小田原北条氏二代目北条氏綱の治世に、定かではないものの改修がおこなわれた様であり、また天文二十四年(西暦1555年)には、小田原北条氏三代目、北条氏康が足柄城の改修を命じたことがわかっております。(氏康が三田郷(現在の神奈川県厚木市)の百姓に足柄城普請の人足を出させることを命じた記録より。)相模の国小田原を本拠とした北条氏にとっても、ここは守りの要であったことを窺い知ることのできる記録と申せますでしょうか。
やがて戦国の世も終わりに近づき、豊臣秀吉の小田原征伐に際しましては、一門の北条氏光が守将として足柄城に配され、北条氏の本城支城体制を支える拠点のひとつとして迫りくる数多の軍勢を迎え撃たんとするのでございました。

後年、江戸の世には道なりは険しいものの距離が短い箱根路が東海道の主要街道として整えられることとなり、足柄峠は脇街道としての役割を担っていくこととなってゆくのでございました。




かつてここに足柄城がございました。

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足柄城址