住職コラム 事事無礙 -jijimuge-

第30回

  7月と8月には、各地でお盆が営まれます。また、8月には終戦記念日もございますので、まさに先人を偲ぶ季節だと言えます。しばしば「慰霊」という言葉が使われますが、浄土真宗では用いません。亡くなられた方は仏さまになられており、迷いの世界(この世)にいる私どもを導いて下さる存在だからです。仏さまを慰めるなんて、迷っている世界からどうしてできるのでしょうか。慰められる、つまり心の安らぎを得ることは、むしろ私どもにこそ必要です。経典には「少欲知足」という教えがあります。日本はついこの間まで、この「少欲知足」の社会であったのですが、今は「使い捨て」の社会です。大量生産と大量消費によって社会を動かしている現代人は、まったく安らぐ暇もありません。形式だけではなく、先人の生きられた道から学びを得なければ、偲ぶことにはならないでしょう。

2009年7月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第29回

 ある新聞の連載記事に、動物の保護について言及するものがありました。人間の感覚中心に野生動物をとらえることについて、問題を投げかける内容でありました。私たちは動物がどのように感じているのか、本当のところは分かりません。人間が可哀想だと感じるからと言って、本当にその動物にとって可哀想な状況であるとは言い切れません。また、人間が住みやすければ野生動物も住みやすいかと言えば、もちろんそうではありません。さらに、いわゆる環境問題にまで話をのばせば、よく「地球のために」という言葉に出会いますが、本来は「地球に住む人間のために」ということです。地球が人間の住める環境ではなくなっても、おそらく地球が壊れることはないでしょう。人間中心の考え方がすべて悪いとは思いませんが、そのなかで生きているという自覚は持っていきたいものです。

2009年6月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第28回

 いわゆる「ヒーローもの」のアニメや特撮番組は、善と悪の枠組みが基本的には変わらないので、勧善懲悪の構図が見事に機能しています。それにしても、毎度やられる悪玉も大変ですが、毎度活躍の善玉も気苦労が多いのではないかと、余計な気遣いをしてしまいます。何せ常に善でなければならないわけですから、気の緩む暇もありません。人間が完全に善なる存在になりきれないのは、新聞の社会面を見れば良く分かります。また、自分の心の動きを正直に観察しますと、結構やましいことを考えているものです。しかも、人間の持つ善悪の基準は曖昧で、決して普遍的なものでもありません。戦争がなくならないのはその証拠であり、基準はいつも一方的です。善だと考えられる行為であっても、見方を変えれば迷惑行為に他ならないこともあります。善と悪の枠組みは限定的なものだということを、やはり意識していく必要はあるようです。

2009年5月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第27回

   「神」(かみ)と言いますと、日本の神だけではなく、訳語として、キリスト教などの神も含まれてしまいますので、そのイメージは一つではないでしょう。ただし、日本の神とキリスト教などで説かれる創造神は、かなり性格が異なります。神道のことは不勉強なのですが、日本では「八百万の神」と言われますように、山川から私たちの生活の場まで、いたるところに神は存在すると考えられてきたようです。そして多くの場合、神は災厄を通して私たちにその存在を知らしめます。そこで私たちは、神への接待とも言える「祭祀」をし、機嫌を損ねないよう上手に付き合うのです。今、私たちは人の住みやすい環境作りに励み、「自然の脅威」とも言える様々な災厄を克服してまいりました。しかし、当然のことながら限界はあります。自然は克服するものではなく、上手に付き合うものだということを、今こそ思い出していきたいものです。

2009年4月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第26回

 最近、いわゆる天動説と地動説についての本を読みました。言うまでもなく、天動説は地球の周りを太陽などの天体が動いているというもので、地動説は地球が動いているというものです。現代日本において、ほとんどの方は地動説を常識として、疑いなく信じていることでしょう。しかし、16世紀頃までのヨーロッパでは天動説が常識であり、地動説を唱えることは、かなり勇気のいることであったそうです。宇宙についての研究が進んでいない時代にあっては、空を見上げれば天体が動いているように見えるのは当然です。私たちがそう思わないのは、地球が太陽系の第三惑星であるという研究成果を知っているからです。目や耳などでとらえることのできる事柄が、実際の様子とは大きく異なるという場合は多々あります。常識は大切ですが、これにとらわれすぎると、真実を見損なう可能性があるようです。

2009年3月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第25回

 寺に入らせていただき、未熟ながら、法務や寺務、そして学問に精進させていただきました。問題を乗り越えながら、家族で協力して生きてこられたことに感謝をしています。しかし、充実しているかのように思えた生活ですが、10代、20代の頃の自分とは大きく異なる生活スタイルに、少し疲れがでていたのかもしれません。半年ほど前、中学からの友人に言われました、「お前と話していると、昔の事ばかりで進歩がない」と。あまにもいいトコ突かれまして、笑うしかありませんでした。やるべきことは変わっても、やはり自分のスタイルというものは変えられるものではないのでしょう。持つべきもの友人だとは良く言いますが、私もそう思える友人に恵まれ、あらためて、出会いのご縁の大切さに気づかされました。

2009年2月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第24回

 私たちは、よく「子をつくる」という表現をいたします。男女が出会うことによって、初めてそこに子が誕生するのですから、間違えた表現ではありません。ただ、仏教には次のような見方もあります。命にはこの世に誕生する前の状態があり、その状態のとき、それぞれの命は自らの両親として相応しい男女を探すというのです。つまり、親が「子をつくる」と言うよりも、子がその親を選んで生まれてきたと言うのです。もちろん、これは通常な場合を想定しての考えです。昨今、本当に親のすることなのかと疑ってしまうような、児童虐待事件が多発しております。子を所有物のように扱い、身勝手きわまりないことです。子は偶然に生まれてきたのではありません。私たちを親として思い、そして生まれてきた子です。どんな子にとっても、親はかけがえのない存在に違いありません。

2009年1月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第23回

 私は僧侶ですので、お葬式を執り行うことがしばしばあります。昨今、色々な形態のお葬式が出てまいりましたが、それが「お別れ」であることには、もちろん変わりはありません。お葬式は、今まで一緒であった大事な方と今日別れ、この世では二度と会うことがないという、そんな悲しい区切りです。もう二度と「おはよう」と言い合うことがないなんて、これほど悲しいことはありません。人は無限の存在ではありません。出会ったならば、必ず別れがやってくるものです。これはどうしようもない道理ですが、時には愚かにも怒りを覚えてしまうこともあります。しかし、いつかは別れがくるとはいえ、出会わなかったほうが良かったとは思いません。ならば、出会ったこと、出会っている瞬間の素晴らしさを大切にしていきたいと、漠然とではありますが、このように考えています。

2008年12月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第22回

阿弥陀さまのおられる極楽浄土は、こちらの世界からすれば、いわゆる「あの世」です。一般的には「天国」などという表現で語られることの多い「あの世」ですが、当然のことながら、その存在を科学的に証明することはできません。しかし、「あの世」が古来より何らかの形で語られるということは、それだけ人々の生活にとって、意義ある存在であったからでしょう。経典には「倶会一処」という言葉が見られ、それは極楽浄土での再会を意味します。この世で出会いながらも、死別が永遠の別れになってしまうならば、これは大変にむなしいことです。そうではなく、再会できるからこそ、残された自分の人生は再び意義あるものとして開かれてきます。ともに極楽浄土へいざなって下さる阿弥陀さまに、感謝をせずにはいられません。

2008年11月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第21回

日本人研究者の先生方がノーベル賞を受賞され、各メディアは久しぶりの明るいニュースとしてそれを報道しておりました。私も受賞までのエピソードなどを興味深く聞き、地道な研究活動に大いに感動いたしました。それぞれのコメントは個性溢れるものであり、嬉しいと同時に、楽しく感じたことでありました。また、先生方がそれぞれの恩師の功績をまず讃えられ、その恩恵を受ける形で自身の研究が進んだことを強調されていたことについて、非常に感銘を受けました。おそらく、ごく自然に出た言葉であったと思います。しかし、これは私たちの社会や生活、すべてにおいて言えることでもありましょう。私たちも、ごく自然に先人の偉業を讃えられるような生き方をしていきたいものです。

2008年10月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
お問い合わせはこちら