住職コラム 事事無礙 -jijimuge-

第10回

 東京から引越しいたしまして、およそ4年が経過いたしました。当初はちょくちょく新宿や品川で友人と食事をしましたが、最近はなかなか足が向かなくなってしまいました。そんな時、たまたま大学図書館へ行った帰り、下北沢でレストランを営む友人を、昼食を兼ねて訪ねました。私が、遠くて皆と会えないとこぼしていると、小田原で食事をしようと提案してくれました。彼は休暇も取らずに店を切り盛りしていましたから、私は驚きました。学生時代は当たり前のように会っていた仲間ですが、今は会うだけでも大変です。当たり前の日常であったことが、大変に有難いことであったと、改めて実感させられました。

2007年11月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第9回

 私たちは「私」という意識を持っていますが、「私」とは一体、何なのでしょう。「私の体」、「私の心」、「私の命」と言いますが、体や心、命が本当に「私の~」と言えるのかは分かりません。記憶を辿りますと、私は3歳か4歳頃まで思い出すことができます。聞いた話が擬似的に記憶となっているかもしれませんが、それなりにイメージはできます。しかし、それ以前の記憶はないので、生まれた頃の写真を見ても、どこか他人を見るような眼差しになってしまいます。赤ちゃんの私も「私」という意識はあったのでしょうが、現在の私の「私」とは連続していないのです。「私」とは、随分と曖昧なものだと思いませんか?

2007年10月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第8回

 仏教と言いますと、ご先祖さまや故人のために供養をする教えと言う印象が強くあります。もちろん、そのような側面もあるのですが、教えの方向は他でもない、「私」に向いているのです。教えに触れるご縁として、故人を偲んだりすることは大切なことです。しかし、それがその場限りの慰めに留まってしまっては、決して供養とは言えない行為になってしまいます。故人は仏となり、遺された「私」を導いて下さっているのですから、歩み出すことこそ、本当の意味での供養となります。仏教の教えは、そんな「私」をそっと支えてくださる仏の慈悲心なのです。そのお心を、ともに聴聞させていただきましょう。

2007年9月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第7回

 今年もお盆のお勤めをさせていただくことができました。お盆と聞けば、誰しもがご先祖さまへの供養を想起されることでしょう。色々な解釈があり、もちろんそれで良いのですが、自分を見つめ直す機会としてのお盆もあるでしょう。ご先祖さまの声とは、すなわち他でもない自分を客観視した自分です。本来、人は自分を見つめることが得意ではありません。しかし、ご先祖さまという尊い存在を通してこそ、真に正直になれるものです。ご先祖さまと相対したとき、普段の生活で無理をしていた部分が少し見えてくるでしょう。独りで生きながらも、いつまでもお世話になっている自分なのです。

2007年8月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第6回

 善福寺は斜面にあるので、駐車場の確保が大変です。駐車場には出入りのための余地が必要です。限りある平地を考えますと、無駄な空間にも思えてきますが、これがないと駐車場として機能しません。また、子供の積み木を見ましても、ケースの中でスシ詰め状態ですが、すき間があるからこそ、子供でも取り出すことができます。収納においては無駄ですが、敢えて無駄を持たせているのです。仕事も精を出し過ぎますと、趣味の時間が無駄に思えてくる時があります。しかし、そんな時間を持つからこそ、うまく回っていくのでしょう。理詰めでは油が切れてしまうこともあります。突然ですが、またバンドをやろうかと、目下計画中なのです。

2007年7月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第5回

 最近、境内の掃除をしていて突然思いついたことがあります。私はロック大好き坊主なのですが、それが自分には活かされていないのでは!!と。多くの音楽は心地よい雰囲気を醸し出してくれますが、そのメロディーや歌詞には意味が込められているものです。私の好きなロックと言えば、まあ、教育的にはよろしくない内容が思い浮かぶのですが、「いい加減」や「適当」と言った具合でしょうか、あまり頑張らない生き方を推薦しているように感じます。しかし、これが実に良いのです。自分にとって好い加減で適したこと、これこそ執著のない生き方なのでは…、と思ったのですが、空から降ってくる葉っぱ一枚に腹を立てていては、ロックも難行です。

2007年6月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第4回

 鎌倉や小田原を始めといたしまして、神奈川県にはお寺が多くあります。しかし、浄土真宗のお寺はあまり多くありません。浄土真宗は規模の大きい教団なので、全国的に見れば、お寺の数は非常に多くなります。ただ、神奈川県は小田原北条氏によって浄土真宗が禁制になった歴史があり、それが数の少ない原因の一つになっているのです。神奈川県と浄土真宗は縁が薄いと思われるかもしれませんが、箱根神社など、親鸞聖人にご縁のある場所は意外と多くあります。隠れスポットもありますので、興味のある方はお問い合わせ下さい。普段の観光とは、また一味違った旅になること間違いなしです。

2007年5月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第3回

 最近、ギターを買いました。バンドをやめて、音楽はよく聞いていますが、演奏することからは離れていました。昔を取り戻そうと言う訳ではありませんが、同一線上の自分でありたいと思ったから、でしょうか。趣味の時間を作れば仕事もはかどる、と単純に考えたところもあります。子供を見て、幼い頃の自分をよく思い出します。自ら成長し、何度か脱皮したかもしれませんが、なんと多くの人に支えられてきたものか。過去を賛美してばかりも具合の悪いことですが、過去と現在は常に繋がっていると思うことは、今を生きるうえで大事なことでしょう。とは言うものの、買ったギターはケースの中、なかなかうまくいかんものですな。

2007年4月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第2回

 善福寺裏の公園は、夕方になると犬の散歩をされる方が多くおられます。寺の犬も公園に連れて行っています。寺の犬は拾い犬で、番犬としてはなかなか働いてくれています。しかし、最近は犬でも猫でも、ペットは家族同様に可愛がられていることが多いようです。実のところ、住職宅には小型犬が数匹おりまして、完全に家族です。家族であるならば、お墓も一緒がいい、と自然に思うのでしょうか。ペットも一緒に入れるお墓の需要が高まっていると聞きました。既存の境内墓地では問題もありますが、別区画でなら可能かもしれません。私も動物が好きですので、要望があれば考えたいと思っております。

2007年3月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦

第1回

 いわゆる「あの世」は死んでから行くところなので、誰にとっても人生最大の不安要素です。どうやっても行って帰って来ることができないので、下見はできません。これは人間にはどうしようもない問題です。浄土とは、このような私たちだからこそ、全ての人が今を不安なく生きるため、阿弥陀如来が造られた「あの世」としての世界であり、この世のために存在します。浄土へ行くために今があるのではなく、今のために浄土があるのです。浄土真宗の教えは単なる来世信仰ではなく、どこまでも今を生きる教えなのです。

2007年2月 浄土真宗本願寺派 善福寺 副住職 伊東 昌彦
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