善福寺とは?
名前の由来
「善福寺」という寺号の由来につきましては、とくに何か伝わっているというわけではありません。しかし、おそらくは「善根福徳」という仏教の言葉に由来し、それを縮めたものではないかと思われます。「善根」といは善い結果をもたらす行いのことであり、「善徳」とは善い行いとその利益のことです。
『大阿弥陀経』という経典には、「其の善福徳は、当に復た大師阿弥陀仏の如くなるべし」(『大正新脩大蔵経』巻12、309頁上)という教説を見ることもできます。善福寺で浄土真宗の教えを開き、阿弥陀如来に出遭うことができたならば。たちどころに多くの「善根福徳」を得ることができる。推し量るならば、こうした願いが込められた寺号ではないかと思われます。
善福寺の歴史
善福寺は龍頭山華水院と号し、宗祖・親鸞聖人常随の高弟である関東六老僧の一人、平塚入道了源上人(伊東四郎祐光)の創建です。伊東祐光は伊豆の押領使・伊東祐親の孫にあたり、その次男・伊東九郎祐清の子で、仇討ちで有名な曽我兄弟とは従兄弟の関係になります。
元仁二(1225)年、一族を弔うために出家した祐光は、法求房と称して天台宗鶏足山高麗寺大権現(現・大磯町高来神社)の別当職につきました。その後、時を同じくして国府津(勧堂)に滞在していた親鸞聖人と出会い、本願他力の道に深く心を打たれ、随喜のあまり弟子となりその門に帰しました。法名も善念房了源と賜り、念仏の教えを各地に弘めて道場を建立し、延応元(1239)年には壗下の地(現・南足柄市壗下公民館)にも草庵を結び阿弥陀堂を建立いたしました。
当初、この阿弥陀堂は七軒門徒が中心に護持をしており、善福寺の本院は大磯山下の地にありましたが、本院が小田原北条氏による一向宗(浄土真宗)の禁制(1506年-1560年)により打ち壊しとなったため、寺基が阿弥陀堂のある壗下に移されるかたちとなったのです。
禁制解除後、北条氏康の帰依により一向宗本寺の朱印免状を受け、大磯にも祖山善福寺が復されたのち、本山・本願寺の東西分派に伴い、壗下善福寺は西本願寺の法灯を守ることとなりました。現在、壗下善福寺は西之坊とも呼ばれ、壗下と隣接する怒田の高台に位置しておりますが、これは度重なる酒匂川の氾濫を避けてきたものです。現阿弥陀堂(本堂)は文化二(1805)年の再建であり、山門は小田原城家老職・大久保忠衛の屋敷門の移築です。