南足柄について

善福寺は神奈川県南足柄市にあり、地理的には箱根外輪山の明神ヶ岳の麓に位置し、歴史的には古代の官道である足柄路の宿場町、関本宿に隣接する「壗下(まました)」の寺院でありました。足柄路はかつての東海道であり、富士山の延暦噴火(800年‐802年)で一時通行が途絶え、迂回路として箱根路が整備されるまでは、駿河と相模を結ぶ唯一の官道でした。足柄峠を下り、関本から狩川、酒匂川に沿って国府津方面に至る道と、松田を経て秦野方面に至る道があったようです。善福寺が創建されました鎌倉前期は、足柄路と箱根路が併用されていた時代であると思われます。

足柄路近辺は金太郎伝説の舞台の一つでもあり、天暦十(956)年に生まれた金太郎は、この付近で熊と相撲を取ったと言われます。後には足柄峠で源頼光と出会い、坂田金時として、その四天王に名を連ねます。善福寺はいまだ創建されていない時代ですが、神奈川県西部の歴史の深さを今に伝えています。また、同じ足柄峠を舞台として、八幡太郎義家の弟である源義光が、永保三(1083)年からの「後三年の役」で苦戦する義家の応援のため奥州に向かう際、足柄峠で自らの討死にを覚悟し、笙の極意を授かった豊原時元の息子、時秋にその場で笙の秘曲を伝授し、時秋を京に帰したという伝説も残されています。

さて、善福寺を創建した了源上人は、俗名を伊東祐光といい、平安末期に伊豆の押領使であった伊東祐親の次男、伊東祐清の子であると伝えられています。伊東祐清は曽我兄弟の実父、伊東祐泰の弟にあたり、祐泰亡き後、嫡子として祐親と行動をともにしました。しかし、祐親は平清盛に恩顧があったため、治承四(1180)年、「石橋山の合戦」(小田原市)で一度は源頼朝を撃破するものの、遂には捕らえられ自害、祐清も北陸加賀篠原において討死にをしました。また、曽我兄弟、すなわち十郎祐成と五郎時致は、母の再嫁先の曽我氏のもと(小田原市)で育てられ、頼朝による建久四(1193)年の「富士の巻き狩り」に参加しますが、そこで仇敵工藤祐経を討ち果たした後、祐成は討たれ、時致も捕らえられ斬首となりました。伊東祐光は祐親系統の伊東氏が滅ぶなか、一族の菩提を弔うために出家したとされています。

伊東祐光は今の平塚市周辺に居を構えていたようであり、出家して法求房と名乗ってからは、高麗山(大磯町)にいたとされます。鎌倉幕府の祈祷僧になっていたとも推測できますが、祐親系統の伊東一族と源氏の関係を鑑みますと、にわかには断定できません。いずれにしましても、祐光は国府津(小田原市)で親鸞聖人と出遇うことになり、浄土門に帰することとなります。

西本願寺の伝承によりますと、親鸞聖人は国府津から箱根路を通って箱根神社(箱根町)に立ち寄り、駿河へ抜けて京へ帰られたと言われます。帰京の正確な年代は不明ですが、壗下善福寺の前身である阿弥陀堂建立、すなわち延応元(1239)年より少し前であったようです。なお、西本願寺の伝承によりますと、聖人の足跡は南足柄とは外れていますが、足柄路を通った可能性もあるようです。もしかしましたら、聖人も関本宿で一泊されていたかもしれません。

ところで、善福寺の裏手には「範茂史跡公園」があります。「範茂」とは鎌倉前期の公卿藤原範茂のことで、後鳥羽上皇に仕えていました。承久三(1221)年の「承久の乱」では上皇側で出陣しますが、敗れて鎌倉幕府に捕らえられます。そして、京から鎌倉へ護送される途中、足柄関を越えてから、麓を流れる狩川の支流(貝沢川)において、斬首を避けるために入水したとされます。これは、当時の仏教理解によりまして、首が離れてしまっては往生ができないと考えられていたからです。「範茂史跡公園」には、今でも範茂を供養する宝篋印塔が残されています。また、「承久の乱」において、敗れた後鳥羽上皇も配流となるわけですが、親鸞聖人が帰京された理由の一つとして、上皇の配流が挙げられることもあります。なぜならば、越後へ聖人を配流(「承元の法難」)したのは、他でもない後鳥羽上皇であるからです。ともに配流された法然上人はすでに往生されていましたが、聖人は生まれ故郷の京に戻るべく、この神奈川の地で東国に別れを告げたのでした。

鎌倉幕府は元弘三/正慶二(1333)年に滅亡し、後醍醐天皇による「建武の新政」を経て、足利尊氏によって室町幕府が開かれます。幕府は鎌倉に鎌倉府を置きますが、やがて関東管領の上杉氏と対立を深め、応永二十三(1416)年には「上杉禅秀の乱」が起きます。当時、小田原近辺は土肥氏の支配でありましたが、土肥氏は禅秀側についたため、駿河の大森頼春によって滅ぼされました。小田原城はこの大森頼春が応永二十四(1417)年に造営した城です。大森氏は今の南足柄にも勢力を伸ばしており、岩原(南足柄市)にも居城がありました。しかし、ほどなくして、小田原城は北条早雲によって奪取されることとなり、後北条氏の拠点となるのです。小田原と言いますと、後北条氏を連想される方も多いでしょう。小田原駅前には北条早雲の像が勇ましく駆けています。

後北条氏は五代続きますが、善福寺は戦国大名の争いに巻き込まれていきます。後北条氏は永正三(1506)年から永禄三(1560)年まで、領内に「一向宗(浄土真宗)禁制」を敷き、本願寺の末寺を領内から一掃します。そのため、善福寺も一度は破却されてしまい、苦しい状況であったことが窺われます。一向宗門徒は各地で領主と衝突を起こしており、善福寺の門徒のなかからも、遠方まで応援に出向いた者がいたと言われています。後北条氏が一向宗を危険視したことには、こうした事情も関係していたのでしょう。

天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めによって後北条氏は滅び、その所領は徳川家康のものとなります。小田原城には家康の家臣である大久保忠世が入り、阿部氏、稲葉氏と城主が入れ替わった後、再び大久保氏が入り明治維新を迎えました。江戸期には小田原藩として周辺地域を治め、東は今の秦野や平塚方面、西は御殿場方面までがその領地であったようです。善福寺は本願寺の東西分裂にともない、西本願寺の法灯を伝持することになっていました。なお、善福寺は幕末に大久保氏から坊守(浄土真宗の住職の妻)を迎えており、その時の嫁入り道具が今も数点残されています。