金時山と金太郎伝説 ~源頼光と頼光四天王のひとり、坂田金時~




日本三百名山のひとつに数えられる金時山は、神奈川県足柄下郡箱根町、神奈川県南足柄市、そして静岡県駿東郡小山町の境に位置しており、一帯は富士箱根伊豆国立公園に指定されているところでございます。箱根山カルデラを囲む外輪山列で最も高い山であり、山頂付近は植生の少ない風衝地となっております。周囲の山よりひときわ高いことから、視界を遮るものも少なく、山頂からの眺望は一見の価値ありと、登山に訪れる人も多いところでございます。

さて、金時山と申せば金太郎伝説発祥の地としても知られるところですが、金太郎伝説はいくつかあり、現在の静岡県駿東郡小山町にございます金時神社につたわる金太郎伝説が比較的昔話としてよく知られたものに近しいと言われているそうですが、今回は、神奈川県南足柄市に残る伝説をまずお伝えできればと思います。

金太郎伝説については、南足柄市のホームページには、金太郎伝説の概要が次の様に記されております。  
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地蔵堂に四万長者がおり、その名前を足柄兵太夫と言います。
この長者に八重桐という一人の娘がいました。
八重桐は縁あって酒田氏に嫁ぎましたが、酒田一族の争いから逃れるため、地蔵堂の屋敷へもどり金太郎を産みました。
金太郎が産まれた時に、屋敷近くにある夕日の滝の水を産湯に使いました。
こうして足柄山に金太郎が誕生し、やがて金太郎は人一倍元気に育ち、長者屋敷の庭石である「かぶと石」や「たいこ石」に登って遊んだり、「金時山」へ出かけたりして足柄山を自分の庭のように遊びまわり、山の動物たちもいつしか金太郎の遊び相手になったのでした。
やがて金太郎は、足柄山の怪童と人々から、うわさされるほどのたくましい青年に成長し、ある日、足柄山中にて源頼光と運命的な出あいをしました。
そして、頼光の家来として取りたてられ坂田金時と改名し、京の都へ上り渡辺綱・碓井貞光・卜部季武らとともに、源頼光の四天王の一人として大江山の酒呑童子退治をしたりして、その名前を天下にとどろかせました。
その後、源頼光が亡くなると三ヶ月間、日夜、頼光のお墓参りをした後、都を去り、ふるさとの足柄山へもどり、その行方をくらましてしまったのでした。

南足柄市ホームページ『観光』金太郎のふる里/金太郎伝説 より
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尤も、歴史的には、坂田金時という人物の実在自体は疑わしいとされております様で、金太郎伝説は平安時代中期の近衛府官人でありました、下毛野 公時の評判がその死後も衰えず、その姿が脚色されていくなかで生まれたものではないかと言われております。やがて文芸・芸能の題材として世に広まっていきました金太郎伝説でありますが、ここで少し話を巻き戻して、時代背景をふりかえってみたく存じます。

万世一系、氏(うじ)というものを持たない皇族が、『氏』を与えられて皇族の籍を離れ、臣下の籍に降りる臣籍降下。その氏のひとつが、嵯峨天皇の御代に、皇族と祖、すなわち源流を同じくするという意で皇子女に与えられたことに始まる『源氏』となりますが、それぞれその祖とする天皇を異にすることから二十一流ある源氏の中、清和天皇から別れでた氏族がやがて武門の代表格として知られるようになる清和源氏と呼ばれる氏族でございます。天安二年(西暦858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した清和天皇でございましたが、貞観十八年(西暦876年)27歳の時に突然譲位、元慶三年(西暦879年)には出家して仏門に帰依、畿内仏寺巡拝の巡幸を経て、丹波国水尾では絶食を伴う苦行を積まれるも、病を発し元慶四年(西暦880年)崩御。宝算31という、決して長くはないご生涯の中で、臣籍降下した皇子は4人、それに孫の王12人を数えます。中でも、第六皇子貞純親王の子・経基王、すなわち源経基の子孫が、後世武門の名高き清和源氏として力をつけ一族が栄えていくこととなるのでした。

経基の嫡男、満仲は藤原摂関家に仕えて官職に就くことで富を得、二度国司を務めた摂津に土着。所領として開拓すると共に、多くの郎党を養うことで源氏の武士団というものを形成してまいりました。そこで築かれた基盤(本拠:摂津国多田)は満仲の嫡男、頼光に引き継がれ、摂津源氏と呼ばれる勢力をつくりあげていったのでした。余談ながら、代々長きにわたり本願寺の坊官を務めてきた下間氏も摂津源氏(摂津源氏の本拠、多田の地を継承してきた多田源氏)の流れを汲む一族と言われているそうでございます。

父、満仲と同じく藤原摂関家に仕えていたと伝わる頼光ですが、藤原北家の全盛期を築いた道長が、そのゆるぎない権勢を築き上げていくに従って、側近として仕えていた頼光もまた武門として誉れ高く「朝家の守護」と称されるようになったそうでございます。そして、同じく藤原摂関家に仕えた満仲の次男で大和国を本拠とした源頼親(大和源氏)、また三男で武勇に秀で、河内国を拠点として武士団を形成していた源頼信(河内源氏)等と共に、後の清和源氏興隆の礎を築いてまいりました。尤も、藤原摂関家との関係から京及びその周辺を主な活動拠点としつづけた摂津源氏に対し、頼信系の河内源氏は、長元元年(西暦1028年)に上総国、下総国、安房国で起きた平忠常の乱(長元の乱)の平定に武功を示すなど東国での武功を重ね、そのこともあってか頼信は上野介や常陸介など遠方で、畿内やその周辺と較べて少ない収入とならざるをえない東国の受領となり、その活動も自然坂東を中心としたものとなっていくのでございました。頼信系はその後、前九年の役でも知られる源頼義、そして後三年の役でも知られる八幡太郎義家と続き、河内源氏は次第に東国においてその地盤を固めていくこととなるのでございますが、その流れの中で武名を上げ、勢力を拡大していき、やがて河内源氏がそれまでの清和源氏庶流という地位から、清和源氏嫡流の地位を事実上占める形へと移り変わっていくのでございました。

父源満仲より摂津多田の武士団を継承し、摂津源氏武士団を形成した源頼光は、武門として摂関家に仕えていたものの、何か大きな武功を上げる、というよりも、どちらかといえば護衛役的な立場であった様で、また拾遺和歌集に和歌3首が入集するなど、歌人としても知られる貴族的な人物像がよく伝わっているところがございます。ただ、大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに摂津大江山へ夷賊討伐に向かった(やがて酒呑童子討伐の伝説に)際の追討祈願文書ものこされており、平安末期頃に成立したとみられる説話集『今昔物語集』や鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立していった種々様々な主題を、時には挿絵入りで描いた短編物語『御伽草子』などで描かれる、丹波国大江山での酒呑童子討伐の姿や土蜘蛛退治の説話などに登場する武門の雄としての姿もひろく人々の間に伝わってまいりました。そのような源頼光の四天王のひとりとして活躍したと伝えられる金太郎伝説の坂田金時、金時山の峠を歩きながら、平安中期のつわもの絵巻に入り込んでみるのもよいのではないでしょうか。



源頼光と四天王(歌川国芳 画)


源頼光(菊池容斎 画)





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夕日の滝・金太郎遊び石
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