箱根神社と親鸞聖人





箱根神社と親鸞聖人とのつながりについてお話するに際し、先ずは箱根神社の成り立ちからお話させていただいたほうがよいかもしれませぬ。その成り立ちを詳しくご存知の方も多くいらっしゃるものとは存じまするが、この『今昔 お寺からの眺め』におきましては、より多くの方々にその時の流れというものを知っていただきたく、少しもどかし気に感じられるところもおありかとは存じますものの、しばし時を遡りましてお伝えできればと思いまする。

当世の箱根神社、嘗ては、古代よりつづく箱根山の山岳信仰がそこにあり、やがて山岳信仰と仏教とが習合した修験道の修験者等が練行する場として知られるようになり、権現(仏教の仏や菩薩が日の本の八百万の神々を仮の姿として現れたものとする神号。『権』は『仮』の意であるので『権現』は『仮の姿で現れた』と読み解くことになります。)という形で祀られておりますところにございました。これが箱根権現でござりまする。そして孝謙天皇の御世、朝廷の命により修験道にも精通した万巻上人が箱根山の山岳信仰を束ねるべく箱根の山に入られ、三年の修行の後に三所権現を感得したと伝えられております。天平宝字元年(西暦757年)には、万巻上人により山麓の芦ノ湖畔に社殿が営まれ箱根神社に、そしてその別当寺として金剛王院東福寺も建立されたとのことでございます。そのようなことから、箱根権現もまた、古来より我が国に土着してきた神祇信仰と大陸伝来の仏教信仰とが溶け合うが如く一つの信仰となりて、広く日の本の各地にて長きに亘りみられました柔らかなものの捉え方、受け入れ方ゆえに成り立つことのできた神仏混淆(神仏習合)の現れと申し得ますものでござりましょうか。

さて時は下り、後鳥羽上皇の院政の御世、承元の法難により越後の国へと配流されていた親鸞の下に、建暦元年(西暦1211年)赦免の宣旨が下りました。その後も凡そ二年半ほどは越後の地に留まっていた親鸞ですが、建保二年(西暦1214年)、常陸国稲田を治めていた稲田頼重の招きにより吹雪谷の地に草庵を結び、「稲田の草庵」と後に呼ばれることになるその地を拠点として、関東に広く布教活動を行っていくこととなるのでした。文歴元年(西暦1234年)実に二十年もの長きにおよんだ東国布教を終え、帰洛の途につく親鸞でしたが、帰洛の契機となったものごとにつきましては、色々と語り伝えられておりますものの、定かではないようでございます。

さて京へと戻るため関東の地を後にするに際し、往路と同じく越えなければならないのは箱根山の難所でございました。この難所越え、鎌倉の頃にはすでに律令時代からの足柄峠を越える足柄道(足柄路)にくわえ、箱根の山を登りまして、芦ノ湖を経て北東に箱根権現を仰ぎつつ小田原へと抜けまする「湯坂道」がととのえられておりました。京へと向かう親鸞が難所を半ば越え、ちょうど箱根権現にさしかかりました時に、権現の夢告を受けたという社人らによって温かく迎えられ、三日の間を箱根の地にて過ごしたと伝えられておりまする。

尚、本願寺第三世、覚如上人の手による親鸞聖人最古の伝記『親鸞伝絵(御伝鈔)』には、宗祖親鸞聖人の二十年におよぶ東国布教の日々につき、あまり多くは記されておらず、わずかに三つのことがらにつき述べられておりますが、その内の一つが、この帰洛に際し期せずして款待を受けたことでございました。長きにわたる関東の地での布教活動において、おそらく数多の逸話もあったことでございましょうが、何故覚如上人がこの事を敢えて取り上げ、記しのこされたのか、そこには何か深い所以などあったのではないかとも考えられているそうでござりまする。

それにつきましては、今井雅晴 著 『親鸞聖人と箱根権現』(自照社出版)をお手に取られることをお勧めする次第でござりまする。

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