日本における古いお墓と言いますと、多くの方が仁徳天皇陵などの古墳を思い起こされるでしょう。さらに世界に目を向けますと、色々と未解明なところもあるようですが、エジプトのピラミッドもお墓であると言われています。また、仏教においては、インドなどに見られるストゥーパ(仏塔)がお釈迦さまの遺骨を納める建物とされ、これは日本ではお馴染みのお寺の五重塔を指しています。お墓の起源や歴史については、専門の方々が色々と論じられております。それを知識として理解しておくことは大切なことですが、ここではお墓を建てる意味について考えてみたいと思います。
お墓が絶対に必要なものかと言いますと、結論から申し上げまして、それは「絶対に」というものではありません。なぜならば、人は亡くなればお浄土です。阿弥陀さまのご本願のはたらきによりまして、決して寄り道することはありません。お墓がなければ故人が迷ってしまう、成仏することができない、ということは有り得ないことなのです。遺骨は確かに故人の残されたものですが、故人はお浄土に往生されておりますので、永久に保管しておいても意味はありません。遺骨は地球上の物質で構成されているので、その役目が果たされたならば、大地に戻すことが筋道でありましょう。
ただし、大事な方を失った私たちの心というものは、これほど理路整然と御しきれるものではありません。浄土真宗をお開き下さいました親鸞聖人も、実は亡くなられる際、門徒の方々には「閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と伝えられております。これはつまり、亡くなれば自分はお浄土に参っているのであるから、遺体や遺骨を祀ったりするべきではないというご遺戒であったのですが、残された門徒の方々は親鸞聖人のお墓を建てられました。それが今の本願寺の前身です。そして、この本願寺を中心に浄土真宗の教えは広がり、現代の私たちの手元にまで伝えられております。阿弥陀さまのはたらきは、分け隔てなく平等に私たちのもとに注がれています。しかし、それを疑いなく信じきることは、煩悩にまみれた私たちには難しいことです。本願寺はこのような私たちに、時代を隔ててもなお、親鸞聖人と出会う機会を与え、お念仏の道を示し続けてくれているのです。
供養とは尊敬の心をもって故人と接し、故人を善縁として、報恩感謝のお念仏の生活を営むことであります。故人のご一生涯から学びをいただき、それを自分の人生にいかしていくことこそが供養の道であると言えます。したがいまして、残された私たちにとりましても、お墓は絶対になければならないというわけではありません。しかし、お墓が故人と接するための一助となることは確かです。お墓を建て、ご法事を営んでいただく中において、故人がお浄土へ参られたよう、私もともに参らせていただく身であることに感謝をしていきたいものです。お墓とは、自分がこの世に生まれ、人生を歩み、そして去って行ったということを示す碑であり、残された家族はそれを善縁として、それぞれの人生の歩みを深めていくことができるものです。お浄土での再会に心をよせ、一日一日を有難く生きたいものであります。